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足と手の触覚から感じるのは

OGの3人から暑気払いに誘われて降り立ったのは,初めての代々木上原駅.
1時間半ほど前に下車して訪れた先は,歩いて5分ほどの古賀政男音楽博物館.ここのところなぜか「柔」の出だしの「勝つと思うな 思えば負けよ」という一説が口を突いて出てきていたから.

さて,来館者一人という貸し切り状態で心に残ったのは,三つ.
一つは,古賀邸の玄関に続く石畳を再現した道.この道を歌手がレッスンを受けるために緊張しながら歩いたという心を感じようと思いながら歩くと,石畳ではなく絨毯の石畳から返ってくる柔らかい感触が,緊張感の再現を阻止するのではなく古の緊張感として蘇らせてくれるような気持ちにさせてくれたこと.
二つ目は,亡くなる二日前のメモに記された,私が作曲したような悲しい歌が歌われなくなる日が来るとよい,と言う類いの言葉にどきっとしたこと.時代背景から悲しみの存在を認め,それを一時でも消し去るための手段として人々のための創作だったのか,達観したような視点を感じさせてくれたからでしょう.
最後の一つは,手型に合わせたときの窮屈さからの感じ方です.大作曲家なので手形も大きいと思っていたのですが,それに手を合わせるとそうでもありません.有名人の手形に自分の手を合わせるということは数回程度ですが,なぜか今回はしっくりきます.それは,凹んだところに窮屈ながら入れることができたからでしょうか.この気持ちよい圧迫感は,一体感を抱かせます.大きさ手形にスカスカ状態で入れたときとは雲泥の差です.

閉館までの50分を堪能して外に出れば雨も上がって気温も急上昇です.
30分程駅周辺を散策した後,約束のお店へ.久しぶりの再会の挨拶も今日の行動の話しとなったので古賀政男音楽博物館に初めて行ったことを話しましたが,彼女たちは古賀政男を知りませんでした.複数の歌手の名前を挙げるとそれは知っていて,その歌を作曲した人と言うと分かってくれました.

改めて「勝つと思うな 思えば負けよ」という言葉が浮かんだ理由を求めてみると二つ目のことなのかと思いました.つまり,感性のデザインをする心というのも同じところにあるべきだろう?!ということだったのでしょうか・・・